赤井川村の歴史ロマン⑦~教育事情の厳しさを想像する~
森のテラス支配人の中村です!
今日も、ブログにお越しくださり、ありがとうございます。
大好評(???)の歴史ロマンシリーズ…
どこかで見たな…とお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが…
事情がいろいろあって、リメイクで蘇らせています。
●前回は大河ドラマ『花燃ゆ』と赤井川村の関係について触れましたが、今回は明治後期から大正期にかけての赤井川村の、主に教育について少しばかり触れてみたいと思います。
●ところで、ご存知のように、日本人の「識字率」の高さは世界でも有数です。
●識字率というものは一朝一夕に高くできるものではありません。日本人全体の教育水準をある程度キープしなければならないのです。そう、「全体」です。ここが大切です。
●江戸時代が終わって、明治になったとき、政府はまっさき(明治5年)に「学制」という教育法令を発布します。
●この法令により、明治政府は北海道以外の日本全国に5万校以上の小学校をつくろうとしたのです。
●実際にはいろいろ問題があり、5万とまではいかなかったものの、学制により日本の近代教育の基礎ができあがったと考えていいと思います。
●では、その基礎の基礎となったものは何だったのか?…そうです!寺子屋です。
●日本の歴史に特徴的なことは、全国的に、藩校、私塾、寺子屋などの存在のおかげで、「学ぶ」ということが人々の生活の身近に存在していたのです。
●ただし、先ほども書きましたが、政府の学区割りに蝦夷地・北海道は含まれていませんでした。
●開拓の厳しさの中では、学校に通うことなどは生きるための二の次、三の次のことだったのでしょう。
●学制から遅れてはいたものの、北海道のあちこちに「寺子屋」は遅い産声をあげはじめます。
●赤井川村にも街の中心部に「寺小屋跡」の記念碑があります。村民のみなさま、場所はおわかりでしょうか?
●先人たちは、厳しい開拓、厳しい雪とのたたかいの中でも、子どもたちの「教育」のために血の滲むような苦労をしてきたのではないでしょうか。
●「寺小屋跡」の碑から、少しばかりそんな想像をしてみました。
森のテラス 支配人 中村 雅志
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