赤井川村の歴史ロマン②~赤井川村の開祖・粟屋貞一~

  大人気(?)の歴史ロマンシリーズ第2弾!

●今回は、赤井川村の「開祖」といわれる「粟屋貞一」をご紹介します。「あわや ていいち」と読みます。

●粟屋貞一は長州藩の士族の出身、サムライです。中国地方の大名・毛利家の家臣で、余市町や仁木町の開拓にも深くかかわりました。

●私が粟屋貞一の存在を初めて知ったのは、もうかなり昔の話で、卒論のために『吉田松陰と松下村塾』のことをいろいろ調べていたとき、松下村塾生が仁木町の開拓にかかわったことを知り、そのときに粟屋貞一のことを知りました。(粟屋貞一自身は松下村塾生ではなかった)

●いまでも仁木町の「フルーツパーク仁木」には、町の歴史コーナーに、粟屋貞一の大きなパネル写真が掲げられています。

●北海道開拓に携わっていた粟屋貞一が、明治15年、余市・仁木からこの赤井川村の「原野」までやってきたと伝えられています。

●余市・仁木方面から赤井川村まで、「人がやっと歩いて通れるくらいの小道」ができたのが明治20年前後といわれていますから、おそらく、粟屋貞一は、深い森の木々を分け入って、この赤井川村の原野を望んだのでしょう。

●粟屋貞一が大江村(現・仁木町)から入ったとすれば、おそらく、現在の曲川地区を経て、都地区に入ったのではないでしょうか?

●ただ、①でも書きましたが、赤井川村はかつては北海道有数の黒曜石の産地だったわけですから、私は、個人的には、石器時代から縄文時代にかけて、この地にはアイヌ人が多く住んでいたと考えています。

●だから、もしかしたら、まったくの未開の地「原野」というわけではなかったのかも知れません。アイヌの人々が住み着いていた可能性もあります。このへんの問題については、専門家の研究が必要だと思います。いろいろ問題もあるのでこれ以上の言及はやめましょう。興味のある方は個人的に…。

●いずれにしても、粟屋貞一がなぜ赤井川村の地に入ろうとしたのか!?その理由を想像するだけでそこにはロマンがあると思います。

●ところで、じつは、私は、粟屋貞一翁の子孫の方と親交があります。私と同年代で、彼は、尊敬できる人物です。

●その方は、現在は、政治活動家として、国政の場で活躍されています。その方の顔は、じつに粟屋貞一翁の顔(下の写真)にそっくりなのです!

●今後、機会をみつけて、いろいろお話をうかがいたいと思っています。みなさまにご紹介できる機会があるかもしれません。乞うご期待!

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